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: ファジィ理論の応用技術と応用分野 : ファジイ理論の概要 : ファジィ集合の基礎的演算   目次


ファジィ集合と可能性と確率と

ファジィ集合は,曖昧な概念を取り扱うために,1965年にL.A.Zadehによって導入された概念であり,その実用性は様々な実用例における成功を通じて,現在,多くの人に認めるところとなってきている.しかし一方,この理論はその発表以来,学会でも多くの批判を被り,現在でもこれを認めない学者も多いことで有名である.事実,ファジィ理論と確率論の違い,および,ファジィ理論に基づく可能性と確率論に基づく確率の違いについて述べる.

ファジィ理論と確率論

ファジィ理論批判のもっとも大きなものとして,確率論者のそれがある.従来,つまりファジィ理論の出現する以前,曖昧なものを定量的に取り扱う唯一の理論的な道具だてとして確率論が確立されており,すでに工学的に応用されていた.ここで問題となったのは,ファジィ理論は,確率論とどう違うのかということであった.つまりファジィ理論で取り扱う問題は,確率論で解決するのと等価ではないかという批判であった. これに対しては,ファジィ学者たちは確率論で取り扱う曖昧さとファジィ理論で取り扱う曖昧さには質的な違いがあることを主張している.即ち,確率論における曖昧さであるランダム性(Randomness)に対して,ファジィ理論での曖昧さとしてファジィ性(Fuzziness)を対比している.そして,ファジィ理論に否定的な確率論者は,このファジィ性をランダム性と混同しているのではないかと指摘している.このファジィ性の概念は,ファジィ理論の応用を考える上で非常に重要であるので,以下で比較して考察することにする.
ランダム性
ファジィ性 例えば,「あの人は若い」というときの「若い」という概念は,曖昧であるがこれはファジィ的な曖昧さであり,決して「若い」という概念がランダムであるとはいえない.「あの人はまあ半分くらい美人といえるだろう.」とはいえても「あの人が美人である確率は半分くらいだ.」とはいえない.つまり美人という曖昧な概念は,ファジィ性をもつのであり,ランダム性を持つのではないからだ.ここでは「若い」あるいは「美人」という概念(あるいは事象と言い替えてもよいだろう)の起こりかたに曖昧性があるのではなく,その概念そのものが曖昧なのである. 逆に,例えば,「正しくつくられたサイコロをふって3の目がでる確率は6分の1だ.」とはいえても,「3の目が6分の1位でている.」とは(サイコロが角で斜めにとまっているのでもないかぎり!)いえない.これは「3の目がでる」という事象に付随する曖昧さがファジィ性ではなくランダム性によるものであるからだ.「3の目がでる」という事象(あるいは概念)そのものにはなんら曖昧性がなく,ただその起こり方に曖昧性があるのである. 数学的にみてもはっきりした違いが見られる.即ち,確率を特徴づける確率分布関数には全事象に対して和をとれば必ず1になることが要請されるが,ファジィ集合を特徴づけるメンバシップ関数にはこのような要請はないのである.ただ最高値が1以下であることが要請されるだけである.これは,メンバシップ関数が通常の集合の特性関数の拡張であり,確率密度関数とは関係がないからである.

可能性と確率

上で見たように,ファジィ性は,人間の主観,概念あるいはそれを表現する道具である言葉のもつ曖昧性を表すのに都合がよい.一般に,人間の持つある概念は境界のはっきりしないものであり,このモデルとして境界のはっきりしないファジィ集合を自然に対応させることができる.そして,「ある対象が,ある概念を属性として持つ」といったとき,その概念に対応するファジィ集合のメンバシップ関数はその対象の「可能性分布」を導くと見ることができる. 例えば,「山田(ある対象)は若い(ある概念).」といった場合には,山田の年齢の可能性分布は図2.2(a)のようになることが誘導される.つまり,「山田が20才以下である可能性はあり,35才である可能性は半分であり,50才以上である可能性はまったく無い.」ということを誘導するのである. これは,ファジィ集合の特別な場合,つまりクリスプ集合の場合を考えるとわかりやすい.「山田(ある対象)は20才以下(ある概念)である.」といった場合は,図2.2(c)のようなクリスプ集合の可能性分布が得られる.これのいわんとするところは,「山田が20才以下である可能性はあり,20才より年をとっている可能性はまったく無い.」ということであり,これが正しいことは自明であろう. このようにファジィ理論に概念を結びつけて応用する場合「可能性」は大きな役割を果たしており,「可能性」を中心とする「不可能性」,「偶然性」,「必然性」などの様相の研究つまり「可能性理論」は,ファジィ理論研究の一大分野となっている.可能性理論そのものが大きな研究分野であり,ここでは多くを語ることはできないが,現在,ファジィ理論の応用として実用化されているファジィ推論技術が概念の曖昧性を扱っており,可能性理論に立脚していることを認識しておくことは重要であろう. さて,メンバシップ関数を可能性分布と同一視するとすれば,ここで,先に述べた,「メンバシップ関数と確率密度関数の対比」は「可能性分布と確率密度関数の対比」に置き換えることができる.つまり,「可能性」と「確率」が違うものとして,対比されることになる.一般には,可能性と確率は混同して用いられる場合が多いが,厳密には違いがある.この違いをはっきり把握することは難しいが以下のことはその違いを捉える助けになるかもしれない. 「可能性」はあくまでも「可能」の「性」であり,ある事象が「可能」であることがどの程度いえるかを主観的に表すものである.これに対し,「確率」は統計的にどの程度の頻度で出現するかを,客観的にあらわすものである. 「可能性」はもともと,「ある」か「無い」かの二値が基本であり,「可能性が高い」とか「可能性が低い」というような中間的な値は,「ある」か「無い」かの(主観的な)判断が曖昧であることにより誘導されるものである.これに対して,「確率」は「高いか低いか」という程度,つまり出現頻度が本質であり,「確率がある」とか「無い」とかいう概念は存在しない. ただし,「可能性」と「確率」の間には,ある程度の関係があることも指摘されている.大ざっぱにいって,

 

確率が高い $\Rightarrow$ 可能性が大

確率が低い $\Leftarrow$ 可能性が小
 
 
が成立するが,その逆は成立しない.確率が高いということは,実際に起こっているのだから可能であるといえるのに対して,可能であるから高い頻度で起こるとはいえない.また逆に,可能であるとはほとんどいえない事象は,出現する頻度は低いといえるだろうが,頻度が低いからといって可能性が無いとはいえない.短的な例として,$x$が0以上10以下の実数であるとしたとき,$x$が丁度5である確率は0だが可能性は1であろう. 本来,主観的にしか与えられない「可能性」を上のような関係を利用して,客観的に求めようとする研究も行われているが,まだ成功しているとはいえず,またファジィ理論の本質を考えた場合それが正当的かどうかは議論の余地のあるところであろう. 確率論は,その客観性ゆえに古来から認められて来たのに対し,ファジィ理論およびそれに基づく可能性理論には,その主観性ゆえに(理論そのものは客観的であるにもかかわらず)批判が多いのは致し方ないであろう.しかし,現実にファジィ・システムが存在し,確率システムでは,手に負えなかった問題を解決している現在,その工学的価値は非常に高いといえるだろう.また,よく経験をつんだ人間が状況判断する場合に,必ずしも確率など計算せずに推論し,的確な結論を導き出していることからも,確率が万能であるとする考えは当たらないと考えよう.

平成12年5月17日